新婚2か月の息子夫婦を待つ
準備をひととうり終えたところで、あるTV番組を見ました。
4人の優秀な若い音楽家たちの4年間
ヨーロッパに留学。教授たちにこう言われる。
「演奏技術は素晴らしいが、自由がない」
彼らは葛藤する。特に、バイオリニストは「自由」というのが
わからずもがき悩む。何度演奏してもダメだし。
それで、教授が彼に代わって演奏。
すると、聴いていた彼から涙。感動の涙。私も感動した。
「温かくやわらかく包んでくれるようだ。凄い!」
どこが違うのか? 「心」です。
「音楽は心です。」「音符は、ことばです。」
教授のひとことひとことが私も伝わり、教えられました。
思い出しました。タイにいる時、タイ語を上手に話そうと
もがき苦しみました。アメリカ人の宣教師のように流暢
に話そうと、真似して速く話したら説教はかえっておか
しくなり、「自分はできない。なれない。ダメだ」と落ち込
んだ。
そんなある日、先輩の宣教師が来られ、田舎に伝道
した時に、はっとさせられました。
「プラチャオ ペン クワームラック」
(神さまは愛です)
相手の顔をみて、ゆっくりと心を込めて語る。
深い感動を覚えました。神の愛を体験しているからこそ
心から出て来る。相手にも伝わる。
「説教は人なり」
技巧ではない。心です。語る人の心がことばに態度に
現れて来る。
そう言えば、「字(書)」も同じです。字にその人の心が
現れます。だから怖いです。自分の姿が見えるから。
「上手に、格好よく、人に上手く見せよう」として書くと
それはすぐにわかってしまう。
「お父さん、今日の字なんかおかしい」
家内は私の字をいつも見ているのですぐ見抜かれて
しまいます。格好をつけていた自分でした。
私は書道家ではない。「神のことば」を書く伝道者です。
それを読んで、人が励まされ、元気になり、救いへと
向けられることだけを願っています。
「先生の字を見ると、バーンと元気をもらえるんです。」
感謝です。それならと、書き続けています。
祈りながらです。私自身が、主のみことばに生かされて
いなければ書けません。
夜10時半すぎ。息子夫婦が来ました。
「インデートンラップ」(歓迎)
ようこそ!
スナリーさんの笑顔に、私たちも笑顔。元気をもらいました。
4本のチューリップの花
明るくしてくれます